オタク考その①

8月はエロ本だのエロゲーの話しかしていないと思うが、閑話休題…というか永遠にポルノの話題だけ続けるわけにはいかない。それにしても、前回はじめてのおするばん&おいしゃさんの話題を取り上げたら、やたらアクセス数が増えた。アクセス数を稼ぎたいとは思っていないが、拙文にお付き合いいただけたというだけでもありがたい。

僕の高校時代、校長がよく「稚心を去れ!」と口にしていた。これは幕末志士の橋本左内の言葉のようだが、いつまで経っても小学生のようなマインドの僕らに憂うところがあったのだろう。さて、それから20年経って僕は稚心を去ることが出来たのだろうか。

結論から言うと、僕はまだ幼稚なままでいる。ここ最近、ポルノの思い出を書き連ねているのは書いていて面白いというのもあるが精神的に成熟出来なかった過程をポルノを通じて見直しておきたいという気持ちがあったからだ。分別もつき歳を取った今、人間誰しも子供の心を抱えたまま生きているものだということも分かっている結局は信念の問題なのだろう。

信念といえば、僕の頭のなかにはオタク=幼稚=人間のクズという図式がある。時代は変わるもので、オタクという呼称にポジティブな意味が付与されたりされなかったりするものの、依然として僕自身はオタクでありがなら、オタクであることを恥ずかしく思っている。(余談:オタクという言葉の定義は多種多様だが、個人的にはオタクは2類型で十分に説明がつくのだ。①一人だけつまらないことにいつまでも固執している:昭和に多い②集団で薄っぺらいことでイキってる:平成に多い)

そして僕は自らを幼稚でクズな出来損ないだと思って絶望するのだが、結局分からないのだ。どうして自分は子供の頃からアニメ・ゲーム・漫画等に性的倒錯を覚えるほどのめり込んでしまっているのだろうか。

例えば「毎日お風呂に入ってゴシゴシと体を洗えば良い」という言説がある。もちろんそれはそうなのだが、お風呂に入らないからオタクということにはならないだろう。オタクだからお風呂に入らないのだ。この手の話題は見聞して面白いが、当事者からすれば残酷なだけに過ぎない。本当は、風呂に入るのを忘れるほど入れ込んでしまうほど夢中になっていたものがあったのに、いつしか夢そのものを見失ってしまい、絶望している。きっとそんなところなのだろう。

ニーチェの本に「愛せないのであれば過ぎ去れ」的なことが書いてあった。きっと僕はアニメを見なくても行きていけるし、ゲームもやらなくたって良い。それでも毎日の生活は明かりのない洞窟のようなものだ。そこで偶像崇拝をすることはおかしなことだろうか?(続く)