趣味は好きになったら関係ないその①

ある日衝動的にガンプラを組みたくなってAmazonで発注したものの、いざ実物を手に取るとなかなか手が動かず、1か月くらい経って漸く素組で完成しそうである。更にこれから塗装等をすると、真の完成はいつになるのだろうか。そんな話。

 

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三十半ばも過ぎてガンプラなぞ作って何やってんだよ、という気持ちがあるから手が動かないのだろう。僕はどうしてもオタク趣味には罪悪感を覚える人間で、好きになった対象をわざわざ批判的な視点で反芻したがる悪い癖がある。好きになったら関係ないよ」と知人は僕に諭すのだが、そう簡単に割り切れないのが人間だ。

しかし、ガンプラを取り巻く環境に関して言えば「クレイジー」の一言だ。どうやら毎月のように新作がリリースされるているのだが、結局のところ立体化されるモチーフは20~30年以上の前のものばかり。思えば20年前、高校生だったころ「そろそろプラモデルは卒業だな」と決心し、洋楽を聞いたり彫刻をやったり受験勉強したり、背伸びして大人になろうとした。それでも最新のアニメから立体化されるプロセスは気になって仕方がなかった。今はそういう時代では無い…いや、変わったのは時代ではなく自分自身なのだろうか。

…先日、ビックカメラで塗料を買おうとしていたところ、子連れの夫婦が子供にガンプラを無理矢理買い与えようとする場面に出くわした。お母さんは子供に父がモチーフを知っている玩具を買い与えることで父子のコミュニケーションの場を設けたいと考えている。お父さんはどうでも良さそう。子供はゲームを買ってほしくてガンプラなんて欲しくない。聞いているとそのような感じだ。

そんな光景を見て、ある少年時代のある時期、父親が狂ったようにドイツのプロペラ機のプラモデルを作り倒すのに付き合わされたことがフラッシュバックした。僕は中年になったことを受け入れながらも、作りたいものを作る。作りたいものを前にして、家政学的な効用や文化的な継承など考えるような人間にはなりたくない。

デカダンス、という単語が脳裏をよぎる。10代のころの思い出は美しく保たれることは無い恐ろしいことに、まっとうな理屈の元に美しい思い出は消化されてしまうのかもしれないと思った。

(続く?)