ポルノの思い出② 桜内彩華 乙女の純真

この文章を書くことに、とても抵抗感がある。心の奥底に蓋をしていた記憶を掘り返さなければならないからである。自分が大人になるために受け入れてしまったこと。拒めるのであれば、何としてでも拒むべきだったこと。そんな思い出。95年位の話である。

僕が中学時代に過ごしたS県某市は80年代にベットタウンとして整備された市であり、昔からの地主と工業団地の労働者と地方から来たホワイトカラーの立身出世組の世帯が混在する、ドストエフスキー的な世界であった。恐らく、昭和にありがちな光景なのだろうが、これら文化的に違いすぎる世帯の子供たちが、同じ公立学校で義務教育を学ぶ。そんなカオスな状況の中僕は少年時代を過ごした。

僕はホワイトカラーの世帯の子供だったから、ご多分に漏れずいじめの標的になりやすかった。大概の場合、工業団地の労働者の子供たちは結束力が高く家族ぐるみで団結している一方で、ホワイトカラーの世帯はそれぞれの企業に縛られるように地域やら学校教育にはあまり興味が無く、ただ子供は雑食でたくましく育って欲しいと考える。そんなホワイトカラーのスカした考えが工業団地の労働者の不興を買うのだ。(余談だが、今思い返すと地主の子供たちは腐るほど玩具を持っていて、いささか頭が弱いという印象だけしかない。)

僕の生存戦略は、勉強すること。学力があれば同級生には一目置かれることもあるし、陰湿な共同体から出ていくことも可能なのだ。

…と、前置きが長くなってしまった。この記事ではどんなエロ本を買ったか、ということが重要である。

 

 第二章:泣きながら抜くということ

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ドーン!

 

お前ロリコンかよ!と笑ってはいけない。今となってはこの手の本は児童ポルノなので購入どころか所持すら出来ない。しかし、当時は普通に本屋で買えたのである。(※児ポ法の関係で、実際に購入したものとは違う画像を掲載する。)

当時15歳だった僕は、同級生のNが好きだった。しかし、Nは工業団地の労働者の娘だったから、精神的にも文化的に釣り合う仲にはならなかったのだろう。当時の僕はそう考えた。彼女は風変わりな女の子で、小学6年生になってからピアノを始めたり、思春期を迎えると文化的な生業に手を染めたがっていた。愚かな僕は自分が文化的な存在だと考えたから、彼女を散々からかって楽しんだ。(男の子というものはそういうものだ。

中学卒業を迎えて僕は進学校へ進路を決め、Nは変哲もない高校へと進学を決めた。不幸にも、当時のS県の進学校は男子校しかなかった。今生の別れである。…今からすると大げさな感じはする。しかし、当時は携帯電話も無ければEメールも無い。進学するということは、成長するための別れであり受け入れなければならないものだ。何はともあれ、そういう時代だったのだ。

僕が後悔しているのは、中学卒業のときNが遊園地に行こうと誘ってくれたのを断ったこと。僕は乱暴なだけの地元の共同体から出ることをずっと渇望していたから、最後に思い出を作ろうとか、そういう考えは一切無かったのだ。

 

…時は流れて、高校進学してから数ヶ月後。僕はすっかりホームシック(?)になってしまい、成績を大きく下げてしまった。燃え尽き症候群というやつである。悲しいことに、僕のように前近代的な地元から出ていくことを目標として高校に来たような連中は少なく、多くの同級生は中学時代の連帯を保ちながら新しい目標へと邁進していた。

僕はNに会いたくて仕方なかったが、もう戻ることはできないこともよく分かっていた。

あるとき、僕はNの面影のある少女の写真集を書店で見つけた。悪名高い力武誠氏によるさーくる社の写真集である。ナポレオン文庫を買うことにすっかり慣れていたので、エロ本の類を買うことにはすっかり慣れたものだったが、さすがに躊躇いを覚えた。しかし、それも時間の問題だった。これが、リアル女性の裸を求めたきっかけである。僕は元同級生のNの息づかいを求めた。やはりエロスは孤独感と密接な関係があるのだ。

僕は暫くの間、Nに面影のある少女の裸で自らを慰めた。しかし、そんな時間は思いの外長く続かなかった。男子校に進学し、体育会系(陸上部)に所属していたことが幸い(?)したのか、学級文庫と称してエロ本が毎週数冊レンタルで回ってくることになったからである。

結局のところ、こうした悲しい思いを引きずった十代の少年は僕だけで無かったのである。悲しみを越えるために、僕と僕の仲間は心の友と認め合い、僕はコミックドルフィン購入担当となり、仲間に貢献することを誓ったのである。

(続く?)

 

追記:思い出深いこの本は、大学進学とともに破棄した。愚かにも大学に進学すれば容姿も性格も良く、自分と世界観を共有してくれる女性が無条件に現れると盲信したのである。